1978年のファーストアルバム以降、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ジャズ、ニュー・ウェーヴ、ヒップ・ホップを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでいる。ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーヴメントの中心的存在。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、またどれほど優れた曲であろうともアルバムの流れから外れた曲は表に出さないという主義から、多大な数のブートレグを生んでいる。その特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。
■少年時代
プリンス・ロジャース・ネルソンはジャズミュージシャンを両親に持ち、音楽とともに育った。その少年期はさまざまな逸話に包まれている(そのいくつかはプリンス本人によって話題作りのために広められた)。その最たるものが「プリンスの父親が黒人で母親が白人である」ということであるが、実際には両親ともに黒人である。しかし、アメリカの有色人種の多くがそうであるように、プリンスも多様な民族の血を引いており、特に彼の風貌や才能からして、インド発祥のジプシーの遺伝が多いものという説が有力である。
ジュニアハイスクール時代に友人や従兄弟らと共にバンドを結成したプリンスは長じるにつれ頭角を現し、ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーブメントの中心的存在として注目を受けるようになる。
メジャーレーベルはこぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザーズと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する。
■新人時代
1978年、プリンスはたった一人でデビューアルバム For you を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた Soft And Wet はR&Bチャートをにぎわせた。
1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム Prince を発表。キャッチな曲として Why You Wanna Treat Me So Bad、I Wanna Be Your Lover がR&Bチャートでヒットとなった。なおI Wanna Be Your Loverは全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。
1980年には Dirty Mind を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、Head と Sister の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。
1981年には Controversy を発表。同名シングルがインターナショナルチャートにランクインする。また同時期にザ・タイムのデビューアルバムをプロデュースする。クレジットはされていないが、実際には作詞作曲演奏のすべてを行っている。この他にもヴァニティ6(アポロニア6)、シーラ E.などをプロデュースし、プロデューサーとしてもその非凡さを証明する。また、シーナ・イーストンやバングルスなど他の歌手への楽曲提供も少なくなく、さらにはプリンスの曲をカヴァーするアーティストも多く、ケイト・ブッシュ、チャカ・カーン、トム・ジョーンズ、シンニード・オコナーなどが代表格。日本では白鳥英美子や矢井田瞳が Nothing Compares 2 U をカヴァーしている。 この時期に、ローリングストーンズの前座としてツアーを行っており、公演によっては、物を投げつけられるなどの客からのブーイングを受けた。
■1999 - The Symbol
1982年ごろからプリンスはバックバンドをザ・レヴォリューションと名付けた。それに伴いアーティスト表記もプリンス単独名義からプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションに変わった。レヴォリューションはメンバーを若干変動させつつ1986年まで存続する。それから1990年までは特にバックバンドに呼称を与えない時期が続き、アーティスト表記も個人名義に戻る。1991年、前年のツアーバンドをザ・ニュー・パワー・ジェネレーション(略称NPG)とし、再び個人名義でない表記(プリンス・アンド・ザ・ニュー・パワー・ジェネレーション)を使い出す。NPGは現在も存続するが、結成時のメンバーは残っておらず、特定の音楽コンセプトの表象というよりは、バックバンドの代名詞となっている。
プリンスは魅力ある女性を積極的に登用することでも知られ、シーナ・イーストン、キム・ベイシンガーやカルメン・エレクトラなどが挙げられる。その一方でマイルス・デイヴィスやジョージ・クリントン、ラリー・グラハム、メイシオ・パーカー といった著名なジャズやファンク系のミュージシャンとのセッションを行っている。また、マドンナ、アーニー・ディフランコ、グウェン・ステファニー や チャックDともレコーディングを行っている。
1982年に2枚組アルバム 1999 をリリースしたプリンスはついにブレイクを迎える。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは Little Red Corvette(6位)、1999(12位)、Delirious(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンとともに名を連ねることになる。なお、本作のCDは1枚で発売されたため、収録時間の都合上、1980年代から90年代にかけて発売されていたCDからは D.M.S.R. が削られている。
1984年、同名映画のサウンドトラックとして Purple Rain が発表され、プリンスのコマーシャル的な価値は頂点に達する。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた When Doves Cry、Let's Go Crazy の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。なお、本作からは他に Purple Rain(2位)、I Would Die 4 U(8位)、Take Me With U(25位)がシングルカットされている。また、When Doves Cry は年間シングルチャートでも1位を獲得している。
プリンスの自伝映画として製作されたこの映画は、6800万ドルの興行収入を得て週間ボックスオフィスで1位、年間で11位という堂々たる成績を収めている。なお、同年のアカデミー賞歌曲・編曲賞を受賞している。オスカー像はのちにプリンスが設立したペイズリー・パーク・スタジオの一角に大事に飾られているという。
全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた Purple Rain の収益でプリンスは独自レーベルであるペイズリー・パーク・レコードを設立する。1985年にこのレーベルから Around The World In A Day を発表。前作とはがらりと作風を変えてきたこのアルバムも全米チャートで1位を獲得する。
翌1986年には監督をも努めた映画 Under The Cherry Moon のサウンドトラックとして Parade を発表。映画自体は興業的に失敗するものの、アルバムは全米で3位となり、シングルカットされた Kiss は全米1位を獲得する。このときのチャート2位が バングルス の Manic Monday であったが、この曲はプリンスが Christopher というペンネームで提供した曲である。また、この年 Parade tour で初の来日公演を果たしている。バックバンドザ・レヴォリューションはこのツアーを最後に解散する。ちなみにプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションの最終公演は横浜だった。
このUnder The Cherry Moonは1986年のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で最低作品賞、最低監督賞、最低主演男優賞、最低助演男優賞(ジェローム・ベントン)、最低主題歌賞を受賞した。
1987年には多くのファンが最高傑作として挙げることの多い、2枚組アルバム Sign "" the Times を発表する。本来は3枚組の Crystal Ball として発表されるはずだったこのアルバムは、ワーナー・ブラザーズとのコマーシャル的ないざこざから削られ、このサイズに落ち着いたという。なお、ツアーの撮影したものをベースに作成された同名の映像作品が発売されている。純粋なライブ映画ではないものの、プリンス関連の映像作品としての評価はもっとも高い。
同年、The Black Album がレコーディングされるが、発売直前になって発売が中止される。歌詞があまりにも攻撃的だったということが理由とされているが、やはりここでもワーナー・ブラザーズとの確執があったためとも言われる。この音源はブートレグとして流出し、世界最高の売上であろうと思われる500万枚以上が販売された。同アルバムは最終的に1994年にワーナー・ブラザーズから発売されている。
1988年には The Black Album のアンサーアルバムとなる Lovesexy をわずか4ヶ月の制作期間を経て発表するが、そのジャケットが物議をかもし、CDでの曲間ジャンプが出来ないようにアルバム全体が1曲扱いになっているという仕様(ただし発売国によっては異なる)のアルバムはセールス的には全米11位、売上50万枚と低迷した。同様に全米ツアーも低迷したが、その低迷分をヨーロッパと日本へのツアーで補うことができたという。
1989年、映画バットマンのサウンドトラックを担当する。サウンドトラックとされているものの、その実は映画にインスピレーションを得たオリジナルアルバムとなっている(ダニー・エルフマンによる映画オリジナルスコア楽曲集は別途発売)。初回限定で缶入りCDも発売された。アルバム、およびシングルカットされた Batdance はチャート1位を獲得する。またこの時、日本のミュージシャン小比類巻かほるへの楽曲プロデュースも話題になった。
1990年、Purple Rain の続編となる映画 Graffiti Bridge を制作するが興業的には振るわなかった。同名のサウンドトラックではザ・タイム 、ジョージ・クリントン、テヴィン・キャンベル、メイヴィス・ステイプルズをフィーチャーしているが、チャート6位、売上50万枚とふたたび低迷する。
1991年にはバックバンドにザ・ニュー・パワー・ジェネレイションを従え Diamonds and Pearls を発表。全米チャートで3位、売上200万枚。シングルカットされた Cream が1位、Diamonds and Pearls が3位を獲得している。
1992年には独自にデザインしたシンボルマークをタイトルにしたアルバムをリリースする。発音不明のため本国では"Symbol"と呼ばれ、日本では「ラブ・シンボル」と邦題がつけられた。全米5位、100万枚のセールス。
1993年、プリンスはワーナー・ブラザーズと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザーズの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品に規制が掛かり、自分が望むような自由な活動が出来ない事に不満が溜まり、お互いの信頼関係が崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードが、プリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖。それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立する。
その後、ワーナー・ブラザーズとの契約消化の為にハイペースでアルバムを発表し続ける事になる。
その際にプリンスはその名を捨てる。1994年発売のComeにおいて「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958~1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボルを自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたもので、錬金術の記号にルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対しての読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声で伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。
この時期から2000年代にかけて、プリンスは多くのライヴをこなしている。
また、ライヴ会場は大きなアリーナだけではなく、小さなクラブで深夜にごく少数の観客を集めて行われている。ときおりペイズリー・パーク・スタジオでも行われたそれは、一般にアフターショウと呼ばれる、入場者は5人から2500人というような小規模なライヴは、八十年代中盤から積極的に行われており、コンセプト上メインのツアーではやらないようなカバーや、気ままなジャムセッション、リサーチもかねた新曲の披露などは、公式に一部ビデオ化されているだけでなく、隠し撮りされた音や映像が膨大な数で回っていることからも分かるように、プリンスのライヴを語る上では本人にとっても、ファンにとっても、単なる余興を超えた重要な位置を占めている。
■Chaos and Disorder:1994〜
1994年に Come、1995年に The Gold Experience をリリースするが、この頃よりマスターテープの権利をめぐりワーナー・ブラザーズとの関係が悪化していく。
1995年に発表した爽快なロックチューン Endorphinmachine が格闘技大会 K-1 WORLD GP シリーズのオープニング・テーマに使用され、日本でプリンスを知らない層にも幅広く有名になった。
1996年の Chaos And Disorder のジャケットは、踏みつけられたアルバム 1999 のレコード盤(瞳のイラスト)に涙が書かれ、その涙がワーナー・ブラザーズのマークであるという意味深なデザインだった。ワーナー・ブラザーズ時代のオリジナルアルバムはこれが最後となる。
1996年、内向的かつ攻撃的であった前作のイメージとはうって変わって、大手レコード会社の契約から解放されたイメージの Emancipation を(EMI と1枚のみの配給合意)リリース。東京でワールドプレミアを開催した。
1999年、ワーナー・ブラザーズから、最後の契約枚数消化の為に未発表曲集The Vault〜 Old Friends 4 Saleが発表される。同じ年にアリスタと配給合意しアルバム Rave Un2 The Joy Fantastic を発表。プロデューサーとしてプリンスの名前がクレジットされる。
2000年、ワーナー・ブラザーズ傘下の出版会社ワーナー・チャペルが管理する出版権が切れるのを機に、自分の名前を正式にプリンスに戻すと発表。
2001年、プリンス名義としては9年ぶりのオリジナルアルバム The Rainbow Children を発表。宗教的でスピリチャルな内容が海外では賛否両論を呼んだターニングポイントの作品。
ワーナー・ブラザーズを離れてからは主にオフィシャルサイト NPG Music Club を中心に活動していたが、2004年2月に第46回グラミー賞のオープニング・アクトをビヨンセと共演。3月にはロックの殿堂入りを果たし、4月にコロムビアと配給合意しアルバム Musicology を発表。コンサートツアーが全米で年間最高の観客動員数と収益を記録し、第47回グラミー賞でも2部門を受賞。米音楽シーンの中心に返り咲いた。
2005年2月、人種差別問題や社会問題などについての認知度を高めたという功績が認められ NAACP Vanguard Award を受賞する。また、ハリケーン・カトリーナの被害救済に一早くチャリティ曲 S.S.T. をネット配信した。12月、ユニバーサルと配給合意し、ニューアルバム 3121 からの先行シングル Te Amo Corazon をネット配信。
2006年3月にアルバム 3121 を発表、ビルボード総合アルバム・チャートで初登場1位を獲得した(通算4枚目の全米No.1アルバム、初登場1位は今回が初めて)。
5月には、アメリカンアイドル (シーズン5)ファイナルにゲストパフォーマーとして登場。
同年11月、ワーナー・ブラザーズ配給映画ハッピー フィートに、新曲Song Of The Heartを提供。
ラスベガスのリオ (ホテル)を貸切り、3121クラブをオープン。翌年4月まで、毎週末にそこでライヴを行う。
2007年1月、『Song Of The Heart』がゴールデン・グローブ賞で主題歌賞を受賞。
2月4日に行われた第41回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演し、パープル・レインを含むメドレーを披露した。視聴率は、アメリカのテレビ史上3番目の高さで約3億人が見たといわれている。
3月、NAACPの授賞式において、最優秀黒人アーティスト(イメージアウォード)を受賞。
5月31日、アメリカの携帯電話ベライゾン・ワイヤレスに、新曲「Guitar」を無料ダウンロードサービス開始。
7月24日に発売のニューアルバム「Planet Earth」が、同15日発売のイギリスの新聞デイリー・メールの日曜版、「The Mail On Sunday」に付録として無料で配布され、業界に波紋を起こす。
8月1日より、ロンドンのO2アリーナ会場で、21公演を開始。
9月14日、ファンサイトに対して著作権侵害を理由に、写真、似顔絵、歌詞、アルバムジャケットなどの掲載を一切やめるよう通告がおこなわれた。それに対し、複数の大手ファンサイト運営者たちは「Prince Fans United」を結成、11月5日に抗議文を発表する。プリンスはその回答として11月8日に「F.U.N.K.」をネット配信した。
2008年2月、第50回グラミー賞にて、最優秀R&B男性ボーカル賞を受賞。
『ディスコグラフィ』
いまだに衰えを知らぬ創作活動、および数千曲とも言われる膨大な楽曲ストックを後ろ盾に、そのアルバムのリリースパターンはデビュー以来一貫して「年(最低)1作品」が原則である(唯一、1983年のみツアー活動、および映画制作等の関係でリリースが見送られている)。
オリジナルアルバム
フォー・ユー - For You(1978年)
愛のペガサス - Prince(1979年)
ダーティ・マインド - Dirty Mind(1980年)
戦慄の貴公子 - Controversy(1981年)
1999(1982年)
パープル・レイン - Purple Rain(1984年 - サウンドトラック)
アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ - Around The World In A Day(1985年)
パレード - Parade(1986年 - サウンドトラック)
サイン・オブ・ザ・タイムズ - Sign "" The Times(1987年)
LOVESEXY - Lovesexy(1988年)
バットマン - Batman(1989年 - サウンドトラック)
グラフィティ・ブリッジ - Graffiti Bridge(1990年 - サウンドトラック)
ダイアモンズ・アンド・パールズ - Diamonds And Pearls(1991年)
ラヴ・シンボル - Love Symbol(1992年)
Goldnigga(1993年 : New Power Generation 名義)
ビューティフル・エクスペリエンス - The Beautiful Experience(1994年)
1-800-NEW-FUNK - 1-800 NEW FUNK(1994年 - コンピレーション)
COME - Come(1994年)
ブラック・アルバム - The Black Album(1994年, 録音は1986〜1987年)
ゴールド・エクスペリエンス - The Gold Experience(1995年)
Exodus(1995年 : New Power Generation 名義)
ガール6 - Girl 6(1996年 - サウンドトラック)
カオス・アンド・ディスオーダー - Chaos And Disorder(1996年)
イマンシペイション - Emancipation(1996年)
クリスタル・ボール - Crystal Ball(1997年 - 未発表曲集)
The Truth(1997年)
Kamasutra(1997年 - インストルメンタル : NPG Orchestra 名義)
ニュー・パワー・ソウル - Newpower Soul(1998年 : New Power Generation 名義)
1999: The New Master(1999年)
ザ・ヴォルト〜 オールド・フレンズ・フォー・セール - The Vault: Old Friends 4 Sale(1999年 - 未発表曲集)
レイヴ・アン2・ザ・ジョイ・ファンタスティック - Rave Un2 The Joy Fantastic(1999年)
Rave In2 The Joy Fantastic(2000年)
レインボウ・チルドレン - The Rainbow Children(2001年)
One Nite Alone(2002年)
One Nite Alone... Live!(2002年 - ライヴアルバム)
Xpectation(2003年 - インストルメンタル : NPG Music Club ネット配信)
N・E・W・S - N.E.W.S(2003年 - インストルメンタル)
ミュージコロジー - Musicology(2004年)
The Chocolate Invasion(2004年 - NPG Music Club ネット配信)
The Slaughterhouse(2004年 - NPG Music Club ネット配信)
C-Note(2004年 - ライヴアルバム : NPG Music Club ネット配信)
3121(2006年)
プラネット・アース - Planet Earth(2007年)
ベストアルバム
ザ・ヒッツ & Bサイド・コレクション - The Hits/The B-Sides(1993年)
ザ・ヒッツ1 - The Hits 1(1993年)
ザ・ヒッツ2 - The Hits 2(1993年)
ヴェリー・ベスト・オブ・プリンス - The Very Best Of Prince(2001年)
アルティメイト・ベスト - Ultimate(2006年)
(参照)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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